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東京台東区は谷中から石垣島へ。


by fuutaro58
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 佐々木譲さんのページを繰っていたらツイッターに、トーマス・ヴィクストロムさんのページで遊んでたらなぜかフェイス・ブックに入ってしまいました。これも縁? 遊んでやってくださいまし。
 ちなみに今嵌っている(嵌りかけている)のが上記のお二人。
 佐々木さんは「鉄騎兵跳んだ」でデビュー、数々の賞もおとりになっている方だけれど、実は読ませていただいたのはほんの少し前から。僕の読書履歴から行けば、……大沢在昌→今野敏を経てたどり着いたもの。これ、勿論日本のハードボイルドの系譜なんだけれど、先のお二人がエンタテインメント度80~90とすれば佐々木さんは60くらいかな。勿論これ、面白くないという意味ではありません。この方の中に内在する思い、というようなものをより強く感じるのです。それは一言で言えば権力あるいは偽善、まやかしなどに対する正真正銘の嫌悪、憎悪なのです。
 もうひとつ彼に特徴的なのは極力実名を登場させるという姿勢。つい昨日読み終えた本(「制服捜査」)の中には谷中天王寺交番で30年奉職された櫻巡査部長が実名で登場しておりました(天王寺交番を舞台にした「警察の血」は大河警察小説とも呼べる力作)。またこれまで定着してきた人物評に反する極めて厳しい指摘も凄い。「武揚伝」は幕末函館五稜郭に立て籠もり薩長連合軍に最後まで抵抗した榎本武揚の伝奇小説ですが、その中で、勝海舟のことを”おしゃべり上手な政治屋”坂本竜馬のことを”勝のメッセンジャーボーイ”、徳川慶喜のことを”狡知に長けた腰抜け”呼ばわりしているのですから、笑いが止まりません。これ単なる罵詈雑言ではないでしょう。それだけきちんとした取材、資料調べをした上での発言(榎本の言葉を借りての)に違いありません。
 さらに特徴的なのはその舞台の裾野の広さ。ハードボイルド・警察小説は言うに及ばず、時代小説、企業小説、盧溝橋事件→「鷲と虎」から第2次世界大戦を描いた3部作→「ベルリン飛行指令」「択捉発緊急電」など、またホラー小説のようなちょっと「えっ!」という感じのものまでその守備範囲はとどまるところを知りません。
 現在図書館から借りているものは10冊。まだまだ彼の著作の3分の2程度ですが、不出来なものがないため、しばらくは心から楽しませてもらえそう。

 トーマス・ヴィクストロムさんを知ったのはNHK BSの「アメージング・ボイス」という番組を通じて。私、正直言ってヘビメタには何の関心もなかったのですが、この歌声には正直圧倒される思いでした。最近目立つファルセットを使った軟弱な日本の歌手とはまったく違うド迫力。私がテレビで見たのは「THERION」(セリオンでいいのかしら)というバンドで歌っていたところですが、今日ユーチューブで改めて見てみると、元はといえば客演していたものが、メインボーカルの座を彼が奪ってしまった感じ。実際、彼以外の男女の歌手とはものが違う。そもそもこの人スウェーデンの国立歌劇団のテノール歌手だそうで、さもありなん、というか、逆にオペラというもの、一度ちゃんと見てみたくなったほどであります。

 しかし世の中は広い、というか浅学な身には”知りたい”ことが山ほどあって死んでなんかいられません、というのが実感。はい。
# by fuutaro58 | 2011-12-09 13:35

保守という心情

 最近気になる言葉の一つに、「保守」という概念があります。ちなみに辞書によれば昔からの風習や考えを保ち守ること。旧来の状態を重んじ、急激な革新に反対であること(広辞林)、とあります。”われらの時代”にあっては保守という概念は即、反動という概念と結びついて、唾棄すべき対象でありました。しかし、翻ってみるに、本来の意味での保守、特に昔からの風習や考えを保ち守ること、という部分は誰の心の中にもあるもので、曲がりなりにも今ある「現在」を守りたいと思うのは当然の心情ではあります。それは一般に「革新」と呼ばれる政党やグループの中にもあるわけで、”われらの時代”にあってはその代表であるところの社会党、共産党、また労働組合もダラ幹、労働貴族などと称されてその組織内保守性を揶揄、侮蔑したものです。
「権力は腐敗する」と喝破したのは19世紀の高名な無政府主義者ですが、それは人間というか、動物本来が持つ自己保存の本能と結びついた自然過程であるといえるかもしれません。
 ところで、その人間にとって生得的な「保守という心情」なのですが、19世紀的現実、20世紀的現実、そして21世紀的現実を比較して同じものといえるのでしょうか。卑近な例でたとえると、女性の処女性に対する価値観。わずか40年ほど前の70年前後の時代にあっては「結婚相手は処女」というのが男性的結婚観の代表で、さらにその十数年前までは、男性は素人女性と性的交渉を持つには「責任を取る=結婚」が前提でした。それが破られれば、その女性は「傷物」であり「お嫁にいけない存在」となりました。しかしそれをさらにさかのぼって江戸時代あたりには、情報の過疎性もあって、地域格差ははなはだしく、総じて庶民レベルではおおらかなものだったといわれています。
 つまり、もっとも身近な価値観である性の倫理観、道徳観も有為転変を繰り返してきたのです。旧来の価値観を守る、という保守の概念が、実はそれほど強固なものではなく、現代においては10年、あるいはもっと短いスパンで移ろっているわけで、それは保守というより、保守的な心情と名づけてかまわないほどのはかない概念でしかないのではないかと思えます。
 では保守という概念に付きまとう、問題点を敢えて拾い出すとすれば何か?
 既得権、という言葉に集約されるのではないでしょうか。
 今アメリカでは若者が格差社会に抗議して、連日座り込み、泊り込みの抗議活動をしています。その抗議の矢面に立たされているのがニューヨークのウォール街。いわずと知れた金融の街です。金を右から左に移すだけで何億もの巨額の報酬を受け取る現代のエリートたち。危機を迎えて政府に援助を求める一方で巨額のボーナスを平気で受け取るCEO 。
 一見シンプルな抗議の中に現代社会を根底的に揺さぶる要素を秘めているこの活動に対し、一般市民は最初拍手を、次第に反感を持ち始めています。この動きは過去の日本の学生運動に対してもそうでした。市民に内在する不満(革新)が抗議に対し賛同を示させ、やがてラジカル(本質的)に移行していく動きに対し不安(保守)をかきたてられ、批判的になる。
 アラブ各国で起こっている反政府運動はその不満の蓄積がより大きいので、「革命」というスタイルにまで移行したといってもいいのでは?

 では今日本の現状は?
 総じて孤立化の時代といってよいのでは。若者のいじめ→自殺、老人の孤独死、子育ての中での虐待……。そんな中で起こった未曾有の大震災。「立ち上がろう日本」「あなたは一人じゃない」……何か皮肉なものを感じるのは私一人ではないはず。よく誤って使われるのだけれど、これは個人主義云々の問題ではない。むしろ自立し得ない個人、非寛容な社会、そして内在化する不満。これらが総じての社会の沈滞化、問題のすり替え、あいまい化を引き起こしている。もちろん中にはこれはと思えるような動きもないではない。しかし原発問題に対しても、たとえばドイツやフランスで見られるような大きな反原発のうねりが大衆レベルで立ち上がってこない。当事国であるにもかかわらず。
 大阪での政治的な動きなど見ていると、行き所のない人々の不満の捌け口さえこんな形でしか表せないのか、暗澹たる思いに駆られる。
 
# by fuutaro58 | 2011-12-01 15:32

心模様

 東北大震災から半年たった9月11日、鉢呂経産相の辞任がマスコミのトップニュースとして流された。被災者の心情に配慮が足りなかった、といわれれば確かにそうかもしれない。しかし「放射能を移すぞ~」云々の発言、親しい記者との懇談の席上だったとのこと、どう考えたところで軽口の一種だろう。何でそんなに神経質になるのか分けがわからない。揚げ足を取るとかいう以前の問題じゃないか。体制翼賛的な「がんばろう日本キャンペーン」などと同様、こうした問題視のされ方のほうがよほど危険な兆候をはらんでいる、といっても差し支えない。戦後民主主義、アメリカさんがもたらした悪しきピューリタニズムの最たるものだと思う。

 今、今野敏という作家の本を読み進めている。デビュー作は上智大学在学中に書かれた「怪物が街にやってくる」。フリージャズの話で、山下洋輔を始め、ファンならすぐそれとわかる現役プレイヤーがモデルとなっている。そこからSFチックなもの、オカルト的なもの、空手など武術家の話し、そしてスパイ小説、警察小説など幅広いジャンルをものにしているが、時系列的に追ってみると、彼の心の軌跡というか、よって立つ立ち居地が明確に見えてきて興味がつきない。
 僕にとってもっとも面白いのは警察小説。警察小説といえばエド・マクベインの87文書シリーズをはじめ、翻訳ものが主流で、日本の作家の作品では大沢在昌とか佐々木譲とかのハードボイルド作家がいくつか書いているが質量ともに今野敏に並ぶ者はいないのでは。
 特に興味深いのは、とかく悪役として登場しがちなキャリアや公安の警察官を主人公にしたもの、誘拐犯など特殊犯を主人公にしたとかげシリーズ、科学捜査研究所の特捜班(プロファイリングのプロや、法医学の専門家など)を主人公にしたSTシリーズなどそのジャンルが多岐に渡っていて、それらを通して警察という組織の全体像が仄見えてくるところだ。
 もし興味をもたれたら、キャラクターが際立っている東京湾臨海署安積班シリーズとキャリア署長竜崎を主人公とする隠蔽捜査シリーズをお勧めしたい。当たり前のことだけれど警察官だって人間、人間としての葛藤、仕事に対する思いなど、心模様が丹念に描かれて、面白いこと間違いなし。
# by fuutaro58 | 2011-09-12 11:58

徒然なるままに

☆死の重さについて

秩父の横瀬町というところにある友人宅を訪なって昨日帰郷した。
旅の道連れは妻と友人夫婦、それに店のお客さんでもある友人。らしい(もちろんいい意味で)蕎麦屋での昼餉に始まって夜半まで飲み明かす。その合間に散歩をし、およそ8年ぶりのマージャンに興じたりもした。10代から60代(私)まで各年代そろっての食事とゲームというのは現代では家族の間でもあまり見かける光景ではないと思う。少し誇らしく思う。
散歩というのは名目で、タバコが切れた僕にみなが付き合ってくれたもの。友人宅は山を切り開いた醸成地の突き当たりにある傾斜地。車が通れる道は山肌を切り開いたものが一本あるきりで、歩いて商店まで行き着くにはあまりにも遠回り。そこで近道(?)として獣道を行くわけで、散歩というより小規模なトレッキングを思わせるコースだった。
途中、先頭を行く友人が地面を指して何事か話し始めた。見れば狸の死骸が横たわっている。死後1週間程度か。市街地に程近い場所で、野生動物と共存している生活のありようを物語っている。そこで想起したのが震災でいまだ発見されていない亡骸。そして友人宅に無数に転がっている虫たちのそれ。不遜を承知で敢えて言葉にすれば本来ある”死”の日常性ということ。もちろん虫や狸のそれと人間の亡骸は同一の価値の元で語られるものではない。しかし死、というより”死体”がタブー視される現代日本の文化にあって、路傍の狢の死が語りかけてくるものは少なくないような気がする。

☆最近あきれたこと

「人生はスタイルだ」と言い放ったのは今は亡きブコウスキー。
スタイルというのはもちろん”格好をつける”という言葉とは極北の地にある。
ある宵、お客さんと都知事選挙の結果について語ったことがあった。政治向きの話は酒席には向かない話ではあることは勿論だが、行きがかり上ちょっと引けなくなってしまった。
「石原さんが何をやってきたの? オリンピックの招致の失敗、新銀行東京の破綻の問題、築地の河岸の移転問題。すべてが失政じゃないの」
「彼には指導力がある……」
彼にそのイメージがあることは確かだろう。
じゃあ指導力って何?
普通に考えればある明確なビジョンがあって(思想と言い換えてもいい)それに基づいて具体的な施策を掲げ、それを実行に移す行動力と方法論を持ち合わせていること、だよな。
では石原氏のビジョンとは何か。想像するだにそれは「強い日本を作ること」だと思う。
強い日本とは具体的に何か。勿論軍事力の増強、というようなこともあるだろうが、より現実的に言えば経済の再生ということだろう。で、とった施策がオリンピックに銀行というわけだ。
しかしことの良し悪しは別として、決定的に欠如しているのは先見性だ。オリンピックに関して言えば、その落選の大きな要因は都民の指示がなかったこと、そしてオリンピックを今東京で開くことの意味合いにIOCを納得させるものがなかったことだ。都民に関して言えばもっと慎重で大胆な根回しが必要であっただろうし、開催の意味合いについて言えば、時を知るというスタンスが皆無だった。
その意味では二都市開催という前例がないにしろ(サッカーのワールドカップ日韓共催だって前例はなかった)広島長崎両市が提案したように、「反原爆」など格好のスローガンだ。(その意味では今なぞ絶好の機会かもしれない)
築地の移転問題にしたところで、建前として建物の老朽化を云々しているが、その実狙いが築地跡地の再開発であることは火を見るより明らかなのに、それをビジョンとして提案できる力量がない。要するに掛け声だけの男なのだ。恐持てで「太陽の季節」とか「青嵐会」とかパフォーマンスの派手な湘南のお坊ちゃま。格好だけで、指導力も行動力もなく方法論も持たない俗物。もううんざり、というほかはない。

☆最近感動したこと、もの。

白川道の「冬の童話」。敢えてジャンル分けすれば純愛小説ということになるのだろう。ただ主人公が酸いも甘いもかみ分けた五十間近の男であることがみそだ。なあ~んも知らない若僧が主人公で、知らないから純でありノー天気に女のケツを追うのではなく、鬼の住処である出版会で一旗揚げ、なおかつその塵芥を彼女を知ることで純化し、再生の道をたどろうとする物語であるがゆえに男に涙させる。この人の小説、ちょっとかっこいい男や女が出すぎるきらいがあり、それが鼻につく面もないではないが、この物語に限って言えば、それはなし、というか気にならない。

☆最近のコマーシャル

書かずにおこうかと思ったが、敢えてやってしまう。
公共広告機構のそれだ。震災直後頻繁に登場した仁科明子さんからの苦情が聞こえたせいかどうか、最近もっぱらやっているのが「がんばれ日本」キャンペーンだ。「あなたは一人じゃない~~」「日本は~~」。事が事だけに否定する気はないが、ここを先途と「愛国教育」を企んでいる輩がいるのではないかと勘繰ってしまう胡散臭さが鼻につく。もっと素朴にいこうよ。

それにしてもだ。今回の震災ぐらい日本人に今のありようを考えさせたことはないように思う。知らないけれど敗戦以来じゃないだろうか。防災のことは勿論だがエネルギーのこと、環境のこと、そして何より私たち自身の生活様式について。あと何年生きられるか知らないが、やり残したことはたくさんある。
# by fuutaro58 | 2011-04-25 08:21

正しい貧乏生活

昨日とは一転しての寒日。店前の梅がやっと遅咲きの花を咲かせた。それにしてもこの氷雨の中、家でのんびりというわけにもいかない。月末の今日は酒屋の支払いがあるので出かけざるを得ない。
身にしみる寒さよ。

最近読んだ小説の一節に、「成功する要件には、ひとつ人一倍の努力、ふたつ強運、みっつ悪いことをする」そしてそのうちのふたつは必要だと言う意味のことが記されていた。鼻で笑いながらも納得。
僕はどれひとつとして持ち合わせていない。

先日近所のおやじ殿と話していて、「努力」は才能だ」という結論に達した。巷間、努力は誰にでもできるというようなニュアンスで伝わっているが、とんでもない。努力するためには集中力、持続力のふたつが欠かせないが、多少のものはともかく、たいていの人は途中で息切れしてしまう。”人一倍”のそれを身に着けるためには集中力には天賦の才、持続力には確固とした動機付けが必要だ。

運。これも才能と無縁ではない。風を感じる敏感なアンテナ。それは本能に近いものから、経験を蓄積して醸成されるものまである。その上にたっての(…)の配剤。

悪いこと。小悪なら誰しも経験のあること。欲望に操られて「魔が差した」という程度の悪は身を滅ぼす要素になりこそすれ成功とは無縁だ。大悪、感情をコントロールして利己主義に徹する。人智を結集してひたすら利という神(悪魔)の僕となる。これも才能といえなくもない。

而して凡俗たる我が身は貧苦の川を遡る他なし(苦笑)。      to be continue
# by fuutaro58 | 2011-02-28 12:35