先日CDを見ていたら見慣れぬそれが。
なんと10数年ほど前、沖縄波照間島で知り合ったカップルのCDなのだ。誰が持ってきたのか店の女の子に聞いてみると女性のお客さんの一人だとのこと。何でも彼らのライブが渋谷であり、それに行った彼女が手に入れたものらしい。しかもすぐ近くの店に来て飲んでいったというのだ。
今は疎遠になってしまっていた二人とのことが魔法のランプでも擦ったかのように急速に蘇っていった。
90年代の半ば頃のことだったろうと思う。40代に入って初めての沖縄、それも石垣島に仕事で行って以来彼の地が病みつきになっていた僕は、定宿にしていた西表島を離れ、石垣経由で初めての島、波照間島に向かっていた。それというのも、前年、新宿の行きつけの飲み屋の常連から、波照間島の「泡波Tシャツ」を買ってきてほしいと頼まれたことを思い出したからだ。
その申し出というのは”気分が向いたときに”というきわめておき楽なものであったため、申し出のあった年はすっかり失念していたもの。西表滞在も1週間以上が過ぎ、島に行っても何をするでもない僕ではあるが、さすがに暇に倦んできて、その申し出を思い出したという次第だった。
1時間余りのあまり快適とはいえない船旅を終えて(外洋に出るので波が高い)船が接岸すると、待っていた宿のおばあ(ちなみにけだもと荘という)の車に乗って一路民宿へ。今宵は僕の他建設工事の仕事で泊まるお客さんが独りいるだけ、という話を聞きながら宿帳に記入、早々に目的地に向かった。
そこは島で唯一(当時)のおみやげ物屋で、男性としては初めて内地から移住した人の店だった。
店に入ると船で一緒だった女性と男性が話している。とにもかくにも「泡波Tシャツ」をということで、品定めしていると、客(僕のこと)のことを心配したのだろうか、先客があわただしく腰を上げた。
それから約30分、僕は彼と島らしいゆったりと流れる時間に任せて島情報を含めてさまざまな話を聞かせてもらった。それによれば、彼はこの店の留守番で、今は島の女性と今暮らしているとのこと。以前某フォーク歌手のバックバンドをしていたことなども聞かされた。
そろそろということで腰を上げると、
「今夜は?」
「別に予定はないけれど」
「西浜で宴会やるからこないか?」
嬉しかった。島の流れはそこそこわかっているつもりではいたけれど、初めての島、それも1泊、何もない最果ての島、そもそも観光などは無縁の旅だから、することがあろうはずもない。
「行くよ」
「迎えに行くから」
宿に帰って早々に夕ご飯を食べ、おばあが提供(もちろん無料)してくれた泡波の三合瓶を抱えて部屋に帰り、一人で本を読みながらちびちび飲っているとお呼びの声。表に出るとポンコツの軽トラックが待っていた。
「あと二人ばかり拾っていくから」
荷台に乗った僕に彼の声。
結局二人のうち一人は午後の船便で帰ったらしく、店の先客であった女性と、彼の相方、それに彼女の三線の先生の計5人で西浜に向かい宴が始まった。
この宴は僕の離島体験の中でも一二のすばらしい宴だった。彼のギター、相方と先生の三線。先客の女性の歌(彼女は函館在住のセミプロの歌手だった)。無芸なのは僕だけ。歌い、話し、笑い、ただの観光客であった二人にとって最高の旅の思い出がこうして作られていった。宴が終わったのは朝4時。Tシャツ1枚だった僕はさすがに11月の冷え込みはきつくなり、明朝の再会を約して、お開きとさせてもらったのだ。
それからの数年僕にとって波照間は西表に次ぐ第二の喜びの島となった。彼の家に泊めてもらったり、彼が作ろうとしていた喫茶店(手作りの建物)の完成を見守り……。
しかし……。感情の行き違いもあって、彼らとは次第に縁遠くなり、今ではほろ苦い思い出のひとつとなっている。そんな存在の男とはるか離れた東京でニアミスしたのだ。
出会いと別れ、それが人生だという。悔いは残るものではある。
それにしてもあの宴を演出してくれた彼らとの別れが寂しくないといえば嘘になる。
やんぬるかな風太郎。
なんと10数年ほど前、沖縄波照間島で知り合ったカップルのCDなのだ。誰が持ってきたのか店の女の子に聞いてみると女性のお客さんの一人だとのこと。何でも彼らのライブが渋谷であり、それに行った彼女が手に入れたものらしい。しかもすぐ近くの店に来て飲んでいったというのだ。
今は疎遠になってしまっていた二人とのことが魔法のランプでも擦ったかのように急速に蘇っていった。
90年代の半ば頃のことだったろうと思う。40代に入って初めての沖縄、それも石垣島に仕事で行って以来彼の地が病みつきになっていた僕は、定宿にしていた西表島を離れ、石垣経由で初めての島、波照間島に向かっていた。それというのも、前年、新宿の行きつけの飲み屋の常連から、波照間島の「泡波Tシャツ」を買ってきてほしいと頼まれたことを思い出したからだ。
その申し出というのは”気分が向いたときに”というきわめておき楽なものであったため、申し出のあった年はすっかり失念していたもの。西表滞在も1週間以上が過ぎ、島に行っても何をするでもない僕ではあるが、さすがに暇に倦んできて、その申し出を思い出したという次第だった。
1時間余りのあまり快適とはいえない船旅を終えて(外洋に出るので波が高い)船が接岸すると、待っていた宿のおばあ(ちなみにけだもと荘という)の車に乗って一路民宿へ。今宵は僕の他建設工事の仕事で泊まるお客さんが独りいるだけ、という話を聞きながら宿帳に記入、早々に目的地に向かった。
そこは島で唯一(当時)のおみやげ物屋で、男性としては初めて内地から移住した人の店だった。
店に入ると船で一緒だった女性と男性が話している。とにもかくにも「泡波Tシャツ」をということで、品定めしていると、客(僕のこと)のことを心配したのだろうか、先客があわただしく腰を上げた。
それから約30分、僕は彼と島らしいゆったりと流れる時間に任せて島情報を含めてさまざまな話を聞かせてもらった。それによれば、彼はこの店の留守番で、今は島の女性と今暮らしているとのこと。以前某フォーク歌手のバックバンドをしていたことなども聞かされた。
そろそろということで腰を上げると、
「今夜は?」
「別に予定はないけれど」
「西浜で宴会やるからこないか?」
嬉しかった。島の流れはそこそこわかっているつもりではいたけれど、初めての島、それも1泊、何もない最果ての島、そもそも観光などは無縁の旅だから、することがあろうはずもない。
「行くよ」
「迎えに行くから」
宿に帰って早々に夕ご飯を食べ、おばあが提供(もちろん無料)してくれた泡波の三合瓶を抱えて部屋に帰り、一人で本を読みながらちびちび飲っているとお呼びの声。表に出るとポンコツの軽トラックが待っていた。
「あと二人ばかり拾っていくから」
荷台に乗った僕に彼の声。
結局二人のうち一人は午後の船便で帰ったらしく、店の先客であった女性と、彼の相方、それに彼女の三線の先生の計5人で西浜に向かい宴が始まった。
この宴は僕の離島体験の中でも一二のすばらしい宴だった。彼のギター、相方と先生の三線。先客の女性の歌(彼女は函館在住のセミプロの歌手だった)。無芸なのは僕だけ。歌い、話し、笑い、ただの観光客であった二人にとって最高の旅の思い出がこうして作られていった。宴が終わったのは朝4時。Tシャツ1枚だった僕はさすがに11月の冷え込みはきつくなり、明朝の再会を約して、お開きとさせてもらったのだ。
それからの数年僕にとって波照間は西表に次ぐ第二の喜びの島となった。彼の家に泊めてもらったり、彼が作ろうとしていた喫茶店(手作りの建物)の完成を見守り……。
しかし……。感情の行き違いもあって、彼らとは次第に縁遠くなり、今ではほろ苦い思い出のひとつとなっている。そんな存在の男とはるか離れた東京でニアミスしたのだ。
出会いと別れ、それが人生だという。悔いは残るものではある。
それにしてもあの宴を演出してくれた彼らとの別れが寂しくないといえば嘘になる。
やんぬるかな風太郎。
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by fuutaro58
| 2009-03-17 12:29