保守という心情

 最近気になる言葉の一つに、「保守」という概念があります。ちなみに辞書によれば昔からの風習や考えを保ち守ること。旧来の状態を重んじ、急激な革新に反対であること(広辞林)、とあります。”われらの時代”にあっては保守という概念は即、反動という概念と結びついて、唾棄すべき対象でありました。しかし、翻ってみるに、本来の意味での保守、特に昔からの風習や考えを保ち守ること、という部分は誰の心の中にもあるもので、曲がりなりにも今ある「現在」を守りたいと思うのは当然の心情ではあります。それは一般に「革新」と呼ばれる政党やグループの中にもあるわけで、”われらの時代”にあってはその代表であるところの社会党、共産党、また労働組合もダラ幹、労働貴族などと称されてその組織内保守性を揶揄、侮蔑したものです。
「権力は腐敗する」と喝破したのは19世紀の高名な無政府主義者ですが、それは人間というか、動物本来が持つ自己保存の本能と結びついた自然過程であるといえるかもしれません。
 ところで、その人間にとって生得的な「保守という心情」なのですが、19世紀的現実、20世紀的現実、そして21世紀的現実を比較して同じものといえるのでしょうか。卑近な例でたとえると、女性の処女性に対する価値観。わずか40年ほど前の70年前後の時代にあっては「結婚相手は処女」というのが男性的結婚観の代表で、さらにその十数年前までは、男性は素人女性と性的交渉を持つには「責任を取る=結婚」が前提でした。それが破られれば、その女性は「傷物」であり「お嫁にいけない存在」となりました。しかしそれをさらにさかのぼって江戸時代あたりには、情報の過疎性もあって、地域格差ははなはだしく、総じて庶民レベルではおおらかなものだったといわれています。
 つまり、もっとも身近な価値観である性の倫理観、道徳観も有為転変を繰り返してきたのです。旧来の価値観を守る、という保守の概念が、実はそれほど強固なものではなく、現代においては10年、あるいはもっと短いスパンで移ろっているわけで、それは保守というより、保守的な心情と名づけてかまわないほどのはかない概念でしかないのではないかと思えます。
 では保守という概念に付きまとう、問題点を敢えて拾い出すとすれば何か?
 既得権、という言葉に集約されるのではないでしょうか。
 今アメリカでは若者が格差社会に抗議して、連日座り込み、泊り込みの抗議活動をしています。その抗議の矢面に立たされているのがニューヨークのウォール街。いわずと知れた金融の街です。金を右から左に移すだけで何億もの巨額の報酬を受け取る現代のエリートたち。危機を迎えて政府に援助を求める一方で巨額のボーナスを平気で受け取るCEO 。
 一見シンプルな抗議の中に現代社会を根底的に揺さぶる要素を秘めているこの活動に対し、一般市民は最初拍手を、次第に反感を持ち始めています。この動きは過去の日本の学生運動に対してもそうでした。市民に内在する不満(革新)が抗議に対し賛同を示させ、やがてラジカル(本質的)に移行していく動きに対し不安(保守)をかきたてられ、批判的になる。
 アラブ各国で起こっている反政府運動はその不満の蓄積がより大きいので、「革命」というスタイルにまで移行したといってもいいのでは?

 では今日本の現状は?
 総じて孤立化の時代といってよいのでは。若者のいじめ→自殺、老人の孤独死、子育ての中での虐待……。そんな中で起こった未曾有の大震災。「立ち上がろう日本」「あなたは一人じゃない」……何か皮肉なものを感じるのは私一人ではないはず。よく誤って使われるのだけれど、これは個人主義云々の問題ではない。むしろ自立し得ない個人、非寛容な社会、そして内在化する不満。これらが総じての社会の沈滞化、問題のすり替え、あいまい化を引き起こしている。もちろん中にはこれはと思えるような動きもないではない。しかし原発問題に対しても、たとえばドイツやフランスで見られるような大きな反原発のうねりが大衆レベルで立ち上がってこない。当事国であるにもかかわらず。
 大阪での政治的な動きなど見ていると、行き所のない人々の不満の捌け口さえこんな形でしか表せないのか、暗澹たる思いに駆られる。
 
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by fuutaro58 | 2011-12-01 15:32