東京台東区は谷中から石垣島へ。


by fuutaro58
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死をみつめて

「死」への想いを初めて形に表したのは二十歳のころのことだったように思う。
 同人誌、というのも恥ずかしいような小冊子に書いた小説のようなもので、タイトルとかも忘れてしまったのだけれど、”死に至る意識の過程”を想像してみようという試みだった。具体的には、ビルの屋上から飛び降りて、地上に激突するわずかコンマ何秒かの時間の中に自分は何を見、何を感じるのか。
 そのころの自分はといえば、バリケードの中に身をおき、生まれて初めて現実的な「自らの死」というものが視界に入ってきたときであり、それに真正面から向きあおうと言う気持ちと、すぐにでも逃げ出してしまいたいという心の揺れの真っ只中にいた。その狭間で、唯一、人がその人生の中で選択でき、かつやり直しのきかない経験である「死」を、「死に至る過程」を、意識化、相対化できないかと妄想したわけだ。
 方法論として浮かんだのは絶対的な死を目前としたコンマ何秒の世界。そしてもうひとつ、緩やかに死に至る過程を自覚的に描く「餓死」の世界(その後IRA(アイルランド共和国軍)の活動家が牢獄でハンガーストライキ→餓死を選んだというニュースが流れたことがある)……。

 それから40年余り。死は形を変えて可視化しつつある。今や秒読み段階に入っている母の死。それに付き添いながら、ふと周りを見ると屍予備軍とも言うべき老いの群れ、「死」の順番待ちをしている人々の群れ……。勿論人はあまねく死に至る過程としての生を生きているわけだが、そこにあるのは「生」の輝きをはるかに凌駕する「死の影」。
 母がこの施設に入居してまだ間がないころ、「お友達を作ったら」という私の呼びかけに無言で下を向いていた。いくらか親しげに彼女に話しかけてくる女性たちがいて、まだまともそうな人たちに見えたのだが、なぜか拒絶する母。やがて、
「合わないから」。
 施設に入居しても化粧を欠かさず、本が読めなくなったと悲しむ母、そうした彼女の精神性が拒絶という形を呼び起こしたのだろうか。
「もう充分過ぎるほど生きたから」。一見「死」を受け入れる態勢が整ったように見える言葉の端から、ここに横溢する死の影を振り払おうとする彼女の生を見たような気がした。
 そして自らもそのとば口に立っていると自覚せざるを得ない自分自身。

 森田芳光氏が亡くなった。調べてみると、僕と誕生日が3週間しか違わない。新作を撮り終えたばかりの「死」。「戦死」という言葉が視界をよぎる。「ブラックレイン」を撮り終えた直後に逝った松田優作とダブって見えるその死。松田もやはり同学年。
 もういまさらという感じの同世代の死ではあるが、自分の「現在」と照らし合わせてみたとき、交錯する思念の中に浮かび上がってきたのが「姥捨て伝説」だった。
 一般には貧しい山村での悲劇と捉えられている姥捨て伝説、しかしあれはもしかしたら松田優作にも森田芳光にもなれない”私”たち(死の順番待ちを拒否する)の唯一の選択肢かもしれないと。その時期を決めるのは自分自身であったとしても。
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by fuutaro58 | 2011-12-22 12:43
 佐々木譲さんのページを繰っていたらツイッターに、トーマス・ヴィクストロムさんのページで遊んでたらなぜかフェイス・ブックに入ってしまいました。これも縁? 遊んでやってくださいまし。
 ちなみに今嵌っている(嵌りかけている)のが上記のお二人。
 佐々木さんは「鉄騎兵跳んだ」でデビュー、数々の賞もおとりになっている方だけれど、実は読ませていただいたのはほんの少し前から。僕の読書履歴から行けば、……大沢在昌→今野敏を経てたどり着いたもの。これ、勿論日本のハードボイルドの系譜なんだけれど、先のお二人がエンタテインメント度80~90とすれば佐々木さんは60くらいかな。勿論これ、面白くないという意味ではありません。この方の中に内在する思い、というようなものをより強く感じるのです。それは一言で言えば権力あるいは偽善、まやかしなどに対する正真正銘の嫌悪、憎悪なのです。
 もうひとつ彼に特徴的なのは極力実名を登場させるという姿勢。つい昨日読み終えた本(「制服捜査」)の中には谷中天王寺交番で30年奉職された櫻巡査部長が実名で登場しておりました(天王寺交番を舞台にした「警察の血」は大河警察小説とも呼べる力作)。またこれまで定着してきた人物評に反する極めて厳しい指摘も凄い。「武揚伝」は幕末函館五稜郭に立て籠もり薩長連合軍に最後まで抵抗した榎本武揚の伝奇小説ですが、その中で、勝海舟のことを”おしゃべり上手な政治屋”坂本竜馬のことを”勝のメッセンジャーボーイ”、徳川慶喜のことを”狡知に長けた腰抜け”呼ばわりしているのですから、笑いが止まりません。これ単なる罵詈雑言ではないでしょう。それだけきちんとした取材、資料調べをした上での発言(榎本の言葉を借りての)に違いありません。
 さらに特徴的なのはその舞台の裾野の広さ。ハードボイルド・警察小説は言うに及ばず、時代小説、企業小説、盧溝橋事件→「鷲と虎」から第2次世界大戦を描いた3部作→「ベルリン飛行指令」「択捉発緊急電」など、またホラー小説のようなちょっと「えっ!」という感じのものまでその守備範囲はとどまるところを知りません。
 現在図書館から借りているものは10冊。まだまだ彼の著作の3分の2程度ですが、不出来なものがないため、しばらくは心から楽しませてもらえそう。

 トーマス・ヴィクストロムさんを知ったのはNHK BSの「アメージング・ボイス」という番組を通じて。私、正直言ってヘビメタには何の関心もなかったのですが、この歌声には正直圧倒される思いでした。最近目立つファルセットを使った軟弱な日本の歌手とはまったく違うド迫力。私がテレビで見たのは「THERION」(セリオンでいいのかしら)というバンドで歌っていたところですが、今日ユーチューブで改めて見てみると、元はといえば客演していたものが、メインボーカルの座を彼が奪ってしまった感じ。実際、彼以外の男女の歌手とはものが違う。そもそもこの人スウェーデンの国立歌劇団のテノール歌手だそうで、さもありなん、というか、逆にオペラというもの、一度ちゃんと見てみたくなったほどであります。

 しかし世の中は広い、というか浅学な身には”知りたい”ことが山ほどあって死んでなんかいられません、というのが実感。はい。
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by fuutaro58 | 2011-12-09 13:35

保守という心情

 最近気になる言葉の一つに、「保守」という概念があります。ちなみに辞書によれば昔からの風習や考えを保ち守ること。旧来の状態を重んじ、急激な革新に反対であること(広辞林)、とあります。”われらの時代”にあっては保守という概念は即、反動という概念と結びついて、唾棄すべき対象でありました。しかし、翻ってみるに、本来の意味での保守、特に昔からの風習や考えを保ち守ること、という部分は誰の心の中にもあるもので、曲がりなりにも今ある「現在」を守りたいと思うのは当然の心情ではあります。それは一般に「革新」と呼ばれる政党やグループの中にもあるわけで、”われらの時代”にあってはその代表であるところの社会党、共産党、また労働組合もダラ幹、労働貴族などと称されてその組織内保守性を揶揄、侮蔑したものです。
「権力は腐敗する」と喝破したのは19世紀の高名な無政府主義者ですが、それは人間というか、動物本来が持つ自己保存の本能と結びついた自然過程であるといえるかもしれません。
 ところで、その人間にとって生得的な「保守という心情」なのですが、19世紀的現実、20世紀的現実、そして21世紀的現実を比較して同じものといえるのでしょうか。卑近な例でたとえると、女性の処女性に対する価値観。わずか40年ほど前の70年前後の時代にあっては「結婚相手は処女」というのが男性的結婚観の代表で、さらにその十数年前までは、男性は素人女性と性的交渉を持つには「責任を取る=結婚」が前提でした。それが破られれば、その女性は「傷物」であり「お嫁にいけない存在」となりました。しかしそれをさらにさかのぼって江戸時代あたりには、情報の過疎性もあって、地域格差ははなはだしく、総じて庶民レベルではおおらかなものだったといわれています。
 つまり、もっとも身近な価値観である性の倫理観、道徳観も有為転変を繰り返してきたのです。旧来の価値観を守る、という保守の概念が、実はそれほど強固なものではなく、現代においては10年、あるいはもっと短いスパンで移ろっているわけで、それは保守というより、保守的な心情と名づけてかまわないほどのはかない概念でしかないのではないかと思えます。
 では保守という概念に付きまとう、問題点を敢えて拾い出すとすれば何か?
 既得権、という言葉に集約されるのではないでしょうか。
 今アメリカでは若者が格差社会に抗議して、連日座り込み、泊り込みの抗議活動をしています。その抗議の矢面に立たされているのがニューヨークのウォール街。いわずと知れた金融の街です。金を右から左に移すだけで何億もの巨額の報酬を受け取る現代のエリートたち。危機を迎えて政府に援助を求める一方で巨額のボーナスを平気で受け取るCEO 。
 一見シンプルな抗議の中に現代社会を根底的に揺さぶる要素を秘めているこの活動に対し、一般市民は最初拍手を、次第に反感を持ち始めています。この動きは過去の日本の学生運動に対してもそうでした。市民に内在する不満(革新)が抗議に対し賛同を示させ、やがてラジカル(本質的)に移行していく動きに対し不安(保守)をかきたてられ、批判的になる。
 アラブ各国で起こっている反政府運動はその不満の蓄積がより大きいので、「革命」というスタイルにまで移行したといってもいいのでは?

 では今日本の現状は?
 総じて孤立化の時代といってよいのでは。若者のいじめ→自殺、老人の孤独死、子育ての中での虐待……。そんな中で起こった未曾有の大震災。「立ち上がろう日本」「あなたは一人じゃない」……何か皮肉なものを感じるのは私一人ではないはず。よく誤って使われるのだけれど、これは個人主義云々の問題ではない。むしろ自立し得ない個人、非寛容な社会、そして内在化する不満。これらが総じての社会の沈滞化、問題のすり替え、あいまい化を引き起こしている。もちろん中にはこれはと思えるような動きもないではない。しかし原発問題に対しても、たとえばドイツやフランスで見られるような大きな反原発のうねりが大衆レベルで立ち上がってこない。当事国であるにもかかわらず。
 大阪での政治的な動きなど見ていると、行き所のない人々の不満の捌け口さえこんな形でしか表せないのか、暗澹たる思いに駆られる。
 
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by fuutaro58 | 2011-12-01 15:32