東京台東区は谷中から石垣島へ。


by fuutaro58
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音の缶詰

少し前、NHKのスタジオパークという番組にジャズピアニストの山下洋輔が登場していた。
言わずと知れた才人。その世界の頂点を極めた人、というばかりでなく、文章を書かせても乙粋の極み。
30年前に書いた「日本冷やし中華連盟」創設にまつわるエッセイなどは抱腹絶倒。また、芸人(才人)タモリとの出会い、今はなき新宿の飲み屋「ジャックと豆の木」でのタモリ、赤塚不二夫などとの連日連夜の抱腹絶倒の粋(酔)芸などは、いまや伝説の粋に達している。

その洋輔さんが、この番組で少しばかり生演奏を披露したのだが、その後、視聴者からのメッセージに答えたくだりに僕は「はっ!」とさせられた。
視聴者のメッセージというのは「これはロックだ」というもの。発信人はロック好きの若い人なのだろうか。
ほんの一時、間が空いて「前にも言われたことがあるんです」と洋輔さんは答え、すごく嬉しい、というようなコメントをしていた。
多分これは本音であると同時に、少し苦い思いもない混ざった感想だったのではないか。

僕の「はっ!」の正体は?
多くのロックミュージシャン、そしてロックファンは「ロックとは何か」と問われた時、たいてい「反(逆・坑・骨~)の魂」などといった答え方をする。そのことに異議はない。ただ僕にはそれがあまりにも感情に流され、形ばかり先行したファッションや商業主義に流れすぎているのではないかと思ったりもする。
もちろんすばらしいロックミュージックはあまたあり、ジャニス・ジョップリン、ドアーズなど好きな歌い手、バンドもいくつもある。ただ総体としてのロックを眺めた時、やはりジャズの存在する地平とは違うのではないか、と思っていたのだ。
さらに突っ込んでしまうと、ロックの主役はボーカルである。ピンクフロイドのようなインストッルメンタルもあるにせよ、だ。歌詞は難しい。ある意味、詩、以上に。エンタテイメントに流されれば通俗的で薄っぺらなものになるし、言葉を深化させて形而上的になれば訳が分からなくなる。
そういう存在であるロックが洋輔さんのジャズとイコールなのか。

「はっ!」の続きである。
もちろんイコールであるはずがない。はずがないが、音を媒介として精神の深奥を吐き出す、という意味合いにおいてはイコールではなくてもニアリーなのではないかという思いである。

いうまでもなくジャズの真骨頂はアドリブ・即興にある。一期一会、その瞬間、その空間に発生する魂の霧のようなものを音にする作業。そしてそれを楽しみ、時におかしみ、時に悲しみ、時に怒りとして噴出させる工程。

昨夜は庄田次郎の恒例ライブ。大阪から東京に来て同棲している若いカップル、自称引きこもりの千葉の青年、川口、栃木などからやってきた4人組の青年男女。みな20代、30代と思われる。
千葉の青年はエリック・ドルフィーを最初ラップのようだと感じたそうだ。
「えつ!!!!」
そのアルト(サックス)の語りがしゃべっている様だとの言に、思わずうなずく次郎さん。そして私。
音の缶詰(レコード・CD) だって悪くない。
ラップ。今までその歌詞の幼稚さにうんざりしていた私に、少しばかり親しみを覚えさせてくれた夜だった。
(つづく)
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by fuutaro58 | 2009-11-15 16:23

無限大の箱

今朝、うつらうつらしながら考えていた。
人間はそれぞれみんな箱を持っているのではないかと。

箱には大小さまざまあるけれど、肝心なのはそれが無限の箱であること。
「無限の箱」?
そう、無限の箱。
無限の箱だから境界が定かでない。伸びたり縮んだりもする。また人によってその境界の輪郭が割とはっきりしている人と、そうでない人が居る。

たとえば趣味というジャンル。
音楽が好き、本が好き、絵が好き、映画が好き、ギャンブルが好き、酒が好き、女(男)が好き……。
大きく分けてもそんな項目がずらずら並ぶのだけれど、そのジャンルの中でもたとえば音楽なら、クラシックが好き、ジャズが好き、ロックが好き、演歌が好き、ポップスが好き、フォークが好き……。
そうしたものが個人の中で錯綜として組み合わされ、それこそ無限級数的な広がりを見せる。
アインシュタインも真っ青だ。

その逆もいえるのだが、嫌いというのは、好き、とは若干趣が違うような気もする。
好きというのはストレートな表現だけれど(もちろん中には下品な天邪鬼も居るが)、嫌いという負のベクトルが働く時は、往々にして自分が好きというベクトルを何らかの形で否定された時に起こるからだ。

で、先ほど挙げた箱の無限性の態様である。
比較的輪郭のはっきりしている人というのは、この好き、嫌いという態様が明快で、ぶれない、いやぶれにくい人だ。そうでない人、比較的輪郭があいまいな人というのは好き、はあっても嫌い、という区分けをあまりしない。悪く言えば、風見鶏、優柔不断という烙印を押されそうだが、翻ってみるに、対応が柔軟で、差別的ではなく、少なくとも好きではない、という事柄に対しても理解を示そうとする。

僕はといえば、後者だ。後者であろうとしている。

(つづく)
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by fuutaro58 | 2009-11-14 17:16

同窓会

「昭和39年度○○中学校卒業生同窓会のご案内」なる書状が舞い込んだ。
私が無沙汰を決め込んでいたせいもあるが、中学の同窓会のお知らせ、というのは初めて受け取った。
たぶん同級生が今年、あるいは来年早々還暦を迎えた(る)からだろうが、思い出せる顔が(もちろん中学時代の)どれほどあるか頭を捻ってみたが、顔と名前が一致するのは十にも満たない。

時はすべてを忘恩の彼方に押しやってしまったようだ。

最近知り合った知人(女性)が子育てに悩んでいる。子育てといっても20歳になる息子のことだ。いわゆるニートというやつらしいが、彼女に語る言葉がない。結局大人になるには自分の自覚を待つしか致し方ないからだ。彼(息子さん)もそのことは重々承知していると思うが、結局水は低きに流れてしまう。それを押し戻すには、人生をかけた踏ん張りが必要なのだが……。

で、思い当たるのが現代という時代の生きにくさだ。
確かにさまざまな技術、特に医療、食の分野での技術革新が「生きる」という上での生物学的な困難を克服してくれたのだが、それに伴う社会の複雑化が「生きるすべを見つけられない」子供たちを大量生産しているといっても過言ではないだろう。

時代小説を読んでいると(もちろんフィクションではあるが)、その時代、人の死がいかに日常化されていたか、したがって生きるという営為がいかにシンプルに存在したかが垣間見られる。
生きているはずのない人が生き延び、死ぬはずのない人が自ら命を経つ、あるいは犯罪者になってしまう、そんな時代のなせる業に悄然となってしまう。
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by fuutaro58 | 2009-11-12 10:40

築地

ひさしぶりの築地。いつもより1時間以上早く7時半に家を出た。
そのせいか、場内はいつも以上の混雑で、ちょっとうっかりしていれば文字通り痛い目にあう。
まずは珍味屋「村また」でたらこと塩辛を購入。続いて同じ筋沿いの「北沢」でちくわを。帰り際ふと台を見ると「にぎす」の文字。確か本当に小さなころ〈小学校低学年?〉食べたことのある魚。「懐かしいなぁ」問わず語りにお姉さんに話しかけると隣の親父が「昔かまぼこに使っていたんだよねぇ」、と答える。網であぶって食べたような記憶があるが、しかとは思い出せない。値段を聞くと250円。1ぴき20円くらいの勘定だ。
ためしに今晩いただいてみて、うまければ水曜日にでもお客さんに出してみよう。
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by fuutaro58 | 2009-11-02 10:45